『姉妹探偵』第1編 冷徹な天使と、慈悲深き悪魔001

姉妹探偵

第1部 事件ファイル1 凍てつく指先と雨の旋律(メロディー)

第1章 帰国した天才

灰色の春、2035年

 電車の窓から見える東京の空は、今日も分厚い灰色に覆われていた。

 2035年、春。

 線路沿いの桜並木は満開に咲き誇り、風に吹かれてひらひらと花びらを散らせている。本来なら、誰もが心躍らせる日本の美しい春の光景だ。けれど、鉛色の空の下で舞い散るその薄紅色は、希望の欠片などではなく、何かの終わりを告げているかのように、どことなく悲しく思えた。

 私は車内の吊り広告にふと目をやる。

 『新生活応援! 国産米5kg 8,980円(税込)』

 赤字で大きく書かれた「特売」の文字が、私の胸をチクリと刺した。安い、と思ってしまう自分と、かつてはこれが2,000円もしなかったという知識との間で、軽いめまいを覚える。

 2020年代に始まった物価の高騰は、誰かの「そのうち落ち着く」という楽観的な予想を嘲笑うかのように、留まることを知らなかった。

 スーパーに並ぶ食料品も、日用品も、当時の3倍から5倍の値段がついている。卵ひとつが70円。もはや高級品だ。

 それなのに、私たちの国は奇妙な呪いにかかっているらしい。国民の平均年収は、15年前の2021年とほとんど変わっていないのだ。

 「生活ができない」

 「生きていけない」

 電車の中に充満する、声なき悲鳴。

 私、榎本彩心(えのもと いろは)には、それがヘドロのような澱(おり)となって、物理的な重みを持ってのしかかってくる。

 私は、いわゆる「共感能力者(エンパス)」。

 こう言うと、心を勝手に読み取る超能力(テレパス)や、スピリチュアルなオカルトの類だと誤解されることが多い。けれど、これはそんな便利な魔法じゃない。心理学や脳科学の領域で説明される、極めて現実的な「脳の特性」だ。

 人間には誰しも、他人の行動や感情を見て、まるで自分のことのように感じる「ミラーニューロン」という神経細胞が備わっている。誰かが痛がっているのを見て、自分まで「痛い」と感じてしまうあれだ。私は、その神経回路の感度が、生まれつき異常に高いらしい。Wi-Fiの電波を拾うように、他人の感情(EQ)を勝手に受信し、自分の感情として脳が誤認(シミュレート)してしまう。スイッチを切ることはできない。

 だから、今の私にはわかる。いや、わかってしまう。隣に立つくたびれたスーツのサラリーマンから放たれる、明日の支払いへの絶望。向かいに座る学生が抱える、将来への出口のない焦燥。それらは言葉にならずとも、ドロリとした「不快な周波数」となって私の肌にまとわりつき、内側から侵食してくる。

 「……っ」

 他人の痛みが、私の胃をキリキリと締め上げる。肌にへばりつくような負の感情を振り払うように、私は思わず自分の腕をさすった。人の心が荒廃したこの2035年において、高すぎる共感力は、身を滅ぼす「呪い」でしかなかった。

 かつてこの街を彩っていた多国籍な賑わいも、今はもうない。

 「日本は安くて良い国だ」なんて言われたのは、もう昔話だ。物価が高すぎて生活が成り立たない移住者たちは早々に帰国し、観光客さえも「割高な国」を見限って去っていった。

 残されたのは、行き場のない私たちと、膨れ上がる貧困だけ。

 貧しさは、人の心から余裕を奪い、倫理を削ぎ落とす。

 最初は生きるための万引きや空き巣だった。それが次第にエスカレートし、今では強盗や殺人、目を覆いたくなるような性犯罪が、日常のニュースとして流れてくる。

 治安の悪化は、かつて下降傾向にあった少年犯罪をも呼び戻した。

 希望を持てない子供たちは、大人たちよりも残酷に、そして刹那的に、罪を犯す。低年齢化していく加害者たちのニュースを見るたびに、胸が張り裂けそうになる。

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